「あいよ、いらっしゃい」

店内に、おじいちゃんの威勢のいい声が響く。その声に連鎖するように、おばあちゃんが「いらっしゃいませ?」と優しい声を出す。「ここ、看板は少し古いけど美味いんだぜ」「へー、確かにいいにおいだ」と今入ってきたお客さん同士が話すのを、お店の一番奥の席で学校の宿題をしている僕らの耳は逃さない。小学校三年生の妹のひかりが「古い看板って、悪口?」と小声で聞いてきたから、満面の笑みで胸を張ってこう答える。「味があるってことだよ」。このお店は、僕の最高の自慢だった。

駅から続く歴史ある商店街の、ちょうど真ん中辺り。呉服屋さんと金物屋さんに囲まれて、ラーメン屋兼住居の我が家がある。そんなに広くないから、その二階で、おじいちゃん世代から僕ら二人の孫世代まで六人が生活することがだんだんと難しくなってきて、普通のサラリーマンの父はその家を出ることを決め、隣駅の物件へと引っ越しをした。中学生の頃の話だ。
「味花ラーメンの息子」
小学生の頃はお店の名前で呼ばれることが誇りでもあった。近所でも「美味しい」と評判だったから、鼻が高かったのだろう。でも、思春期に突入した時には、その呼ばれ方はアイデンティティの確立にはとっても邪魔だったようで、あれだけ好きだったお店を離れることを、嫌がりも反対もしなかった。「おじいちゃんとおばあちゃんと離れるの嫌!」と唯一、妹だけが泣いて嫌がった。

今も、忘れない。
その家を出て行く前の日、おじいちゃんは僕に、あの威勢のいい声とは程遠いかすれた声でぽつりと、「また遊びに来いな」と言った。それは、今まで見てきたおじいちゃんとはまるで違う人が発した言葉のようで、そのあまりの驚きに、頷くことも、「うん」と言葉を返すことも出来なかった。
それから、おじいちゃんと話すこともなく、その家を離れた。妹は引っ越しの日、最初から最後まで泣いて新しい家に行くのを嫌がり、結局もう一日だけその家に泊まることになった。移動中の車内で、「またすぐ遊びに来よう」と心に決めた。でも、中学生のあの日々は自分の想像以上に忙しくて、結局、高校生になるまでその家に行くことはなかった。

「あいよ、いらっしゃい」「いらっしゃいませ?」
「あ、俺」
久々にその家を訪れた時は、少し他人行儀で、少し照れてもいた。高校の友達も一緒だったからだ。当時、市内のラーメン屋を巡るという高校生にありがちな自転車での旅を繰り返しており、今回のターゲットが「隠れた名店」として密かに有名だった隣町の味花だった。「え?あそこお前の親の実家なの?」と盛り上がり、急遽来ることになって、僕は緊張していた。
久し振りに会ったおじいちゃんは少し気まずそうだったけど、おばあちゃんは変わらない笑顔で「いらっしゃい。久し振りね?。元気?」と水を置くついでに聞いてきてくれた。友達の手前、「元気」とぶっきらぼうに答えたけど、久しぶりに聞くおばあちゃんの声は懐かしくて、なんだか安心した。
「おお、美味いな」
友達の本気の感想に、僕は胸を撫で下ろした。そして同時に、すごく嬉しくなった。
不思議だな、と思った。
まだこの場所は、自分の場所でもあるのだろうか。
まだ、僕はこの場所を誇っても良いのだろうか。
「ちょっとトイレ」
そう言って席を立った友達を見て、はっと気付いた。友達と一緒に座っていたのは、小学生の頃、妹と宿題をやっていた一番奥のあの席だった。入り口や店内やおじいちゃんが働く厨房が一番良く見えて、忙しいおばあちゃんがいつでも振り返れば僕らに気付けるこの場所。
そうだ、僕はここがお気に入りだった。
この場所が、大好きだった。
「久々にさ、泊まりきてもいい?」
友達がトイレの間、水のお替りを持ってきたおばあちゃんに勇気を出して聞いてみた。おばあちゃんは「あら、いつでも歓迎よ」と言って笑ったあと、「ね、おじいさん。いつ泊まりに来てもいいわよね」と振り返って言った。
「そんな場所ねぇよ」
おじいちゃんは向こうを向いたまま、そう答えた。

それからも何度か家族でその家に行く機会があったけど、何かと理由をつけてはそれを断った。妹はそんな僕を見て「お兄ちゃん、冷たい人になったね」と言った。とっさに「じじいとばばあになんて会いたくねぇよ」と、心にもないことを言った。言ってしまった。

おばあちゃんが倒れたのは、その一週間後だった。
おばあちゃんが家で倒れて、救急車で病院に運ばれたという知らせを、おじいちゃんから電話で受けたのは僕だった。ちょうど家には誰もいなくて、父と母の携帯に連絡をして、自転車に飛び乗って病院へ向かった。
病院に近付くにつれ、罪悪感がこみ上げてきた記憶が残っている。
走っている最中、頭の中でずっとおばあちゃんに謝っていた。
ごめんね、ずっと行かなくて。
ごめんね、ひどいことを言って。
ごめんね、ぶっきらぼうに答えて。
ごめんね、いつでも歓迎よって言ってくれた時、すごく嬉しかったのに、その嬉しさすら伝えられずに、ずっと逃げていて。
ごめん。
知っていたはずなのに。あそこが自分の大好きな場所だって。
それに、そこにはおばあちゃんが居ないと駄目なんだって。
ちゃんとわかっていたのに。
全速力で走った。頭の中に浮かんでくる色々なことを吹き飛ばすように。坂道を上って、病院の駐輪場に慌てて自転車を置いて、今度は自分の足で走った。自動ドアさえ遅く感じて、焦りすぎて手でこじ開けた。そこで、病院のロビーにうなだれるように座っているおじいちゃんを見つけた。
「おばあちゃんは?」
駆け寄った僕は、ほぼ無意識にそう聞いていた。おじいちゃんはこちらに気付くと、「おう、来たか」と弱々しい声で言った。「おばあちゃんは?」息を切らしながら、もう一度聞いた。
「命に別状ははないってよ。意識ももうある。ただ…」
おじいちゃんはこちらを見ずに、前を向いたまま言った。息を切らしたまま、次に来る言葉を待った。
「歩くのが少し不自由になるそうだ」

僕は壊れたオモチャのように、おじいちゃんの隣に座ってうなだれていた。命に別状はないことに救われたのは確かだけど、「歩くのが不自由になる」という言葉の響きは、思考停止させるのに十分な重みを持っていた。だから、何も考えずおじいちゃんの隣に座れたのだと思う。
しばしの沈黙の後、おじいちゃんが口を開いた。
「謝れって言われたよ」
僕は無言だった。おじいちゃんが言葉を続けた。
「あいつにな、お前に謝れって言われた。前にお前がうちの店に来た時な。あの子が折角泊まりに来たいって気を使って言ってくれたのに、なんですかあの言い方は、ってな。久し振りだ、あいつに怒られたのは」
また、少しの沈黙。
「悪かったな」
おじいちゃんがぽつりと言った。その言い方は、家を出る前日のあの時と、トーンが同じだった。あの時の言葉がフラッシュバックする。「また遊びに来いな」。そうだ、確かにおじいちゃんはそう言ったんだ。
「本当だよ。自分が遊びに来いよって言ったくせに」
自然と言葉が出た。おじいちゃんは一瞬目を丸くした後、少しだけ笑った。
「お前が遅いからだ」
わざと憎まれ口なのがわかったから、逆に嬉しかった。
「あ、あと俺は別に気を使って泊まりたいって言ったわけじゃないから。普通に泊まりたくて、言ったから」
わけの分からない主張なのはわかっているが、言いたかったのだ。
「そうか」
おじいちゃんが一瞬目を伏せた。
「それはばあちゃんも、喜ぶな」
穏やかな、優しい声でおじいちゃんが言った。
一瞬、涙が出そうになった。
「あら、珍しい二人組」
父や母や妹が到着した。

おばあちゃんは、何日か検査入院をした後、味花の家に戻ってきた。
ただ歩くのが少し大変そうで、お店は母や妹が手伝うことが多くなった。勉強の合間にちょくちょく手伝いに行った。おばあちゃんは二階に居ることが多くなって、少しだけ心配になり、わざとおばあちゃんと一緒に居る時間を増やした。一緒にTVを見たり、お店であったことを伝えたりする何でもない時間だったけど、僕にとっては大事な時間だった。

「本当はお店でお客さんと話したいんだけどね」
いつだったか、味花に手伝いに行った日、二階の寝室でおばあちゃんがTVのラーメン特集を見ながら会話の流れで独り言のように言った。
「リハビリにもなるし、やればいいじゃん。少しゆっくりめになったとしても俺たちが手伝ってるんだからさ」とすかさず言うと、身体を反転させて階段の方を見ながら言った。
「ありがとうねぇ。でも、この移動がきついのよ」
狭い家に無理矢理くっつけたみたいな真っ直ぐな階段は、足を不自由にしたおばあちゃんには少し急過ぎた。確かに僕でも足を踏み外しそうになるぐらいの傾斜だ。
「いつでもドア、みたいなのがあればいいのにねぇ」
アイテムの名前は間違っているけど、おばあちゃんの言いたいことはなんとなくわかった。一瞬で上と下を移動できる何か。そんな魔法みたいな「何か」を求めていた。いや、まぁ、一瞬でなくてもいいのだけれど。
階段を挟んで向こうに人影が見えた。そこから声が飛んで来る。
「エレベーターでもつける?」
妹が話に割り込んできた。いつでも抜け目なくよく話を聞いている妹だと感心する。「それ、採用したいわね」とおばあちゃんが笑った。
「どこにつけるんだ、そんなもん」
そう言いながら、次の日起きたら調べてみようと思った。妹が布団に潜り込むのを見届けて、味花を出た。
そこに広がったのは、月が浮かぶ星空。季節柄、外ももうずいぶん寒くなってきたなぁ。吐く息は白く、自転車のハンドルはものすごく冷たかった。帰りたくないな、と自転車に乗りながら僕は少しだけ思った。

おばあちゃんがなかなかお店に出なくなっても、おじいちゃんの作るラーメンは相変わらず美味しくて、お客さんの数は毎日安定していた。その中には商店街関連の昔からのお客さんも多く、二階に居ることの多いおばあちゃんに会えないのを寂しがる常連さんも居た。おばあちゃんの寂しさと同時に、それもどうにか解決できないかと、不本意だけど妹の発想からヒントを得て、インターネットで家につけるエレベーターについて調べていた。
家にエレベーターがあるなんてどんなお金持ちだろう、と思っていたが、一応調べてみようと思って検索すると、案外多くの情報が出てきた。いくつか情報を見た上で、家にエレベーターをつけるのは費用的には難しいかなとは思いながらも、一応大手メーカー製のホームエレベーターの資料を取り寄せた。どこかにまだ残っている罪の意識を埋めるためにも、何かおじいちゃんとおばあちゃんのためになるようなことをしたかった。ただ、資料を読んでもちんぷんかんぷんで、これはとても手に負えないなと思い、途方に暮れていた。
ぼっーとしていると、携帯に着信があった。いつもラーメン巡りを一緒にしている友達からだった。
「次どこ行く?」
いつも通りの定期的なメールだったが、そこでいいアイデアが浮かんだ。たしか友達の親父さんは建築関係の仕事をしているって言ってなかったっけ?早速メールで確認してみると、ビンゴだった。友達もそうだが、親父さんも相当ノリがいいのだろう。トントン拍子に話が進んで、友達の親父さんがお店を見に来てくれることになった。勢いだけかもしれないが、何とかなるんじゃないかという希望が湧いてきた。

「ラーメン、うまっ」
友達の親父さんは大袈裟なリアクションをした。一緒にお店に入る前から分かっていたことだが、とにかく明るい人だ。見た目は筋骨隆々で、ガテン系の大人というイメージがピッタリだった。
「うるせぇ、黙って食え」
カウンターの中から、おじいちゃんが友達の親父さんに突っ込む。どうやら、職場が近い関係で、親父さんは以前からこの味花を利用していたらしく、二人は顔見知りだった。
「やっぱりうめぇなぁ、このラーメン」
放っておくとずっとラーメンの話をしそうだったので、本題に入った。
「あの、この家にエレベーターをつけることは出来ますか?」
おじいちゃんにもまだ内緒の話だったので、声を潜めて質問をした。友達が「親父にそんなことわかんのかよ」とはやし立てた。腕を組んだ親父さんは少しの沈黙のあと、言った。
「うーん、少し難しいとは思う」
親父さんの説明によると、ホームエレベーターを設置するには、一畳以上のスペースと、300キロ以上の重さを支えられる天井構造が必要らしい。最初からホームエレベーターを組み込んで建てる家とは違い、この家の場合だと、大規模な建て直しが必要になるということだった。
「じゃあ、無理ってことか?」
言葉が出なかった僕に代わって友達が質問をした。親父さんが腕を組んだまま、さらに悩んだ後、口を開いた。
「だが、もしかしたら、エレベーターじゃなければ手はあるかもしれない」
「え?」僕と友達の声がハモった。
それが僕と、まるで「いつでもドア」のような夢のアイテムとの、出会いのきっかけだった。

階段昇降機。
友達の親父さんが自前のタブレットで階段昇降機の動画を見せてくれた。
壁に沿って取り付けられた銀色のステンレス製のレール。そのレールにしっかりはめ込まれている背もたれ肘掛け付きの昇降機が、包み込むように人を乗せ、きっちりと安定した状態で、階段を上下移動する。これなら足が不自由な人でも楽々階段を昇り降り出来る。
「しかも、エレベーターに比べりゃ、階段昇降機はだいぶ安く設置できるんじゃねぇかなぁ」
頭をポリポリ掻きながら、友達の親父さんは言った。
「もともと階段昇降機は介護分野のアイテムだ。助成金なんかもあるらしい」
暗闇の中で、綺麗に輝く一筋の光が見えたような気がした。
「ありがとうございます!」
自然と頭を下げていた。
友達が「そんなに改まらなくても…」と突っ込んだが、そんな僕を見た親父さんは、少しの間をとったあと、「いい孫を持って幸せじゃねぇか」と、おじいちゃんの方を振り返って呟いた。

足早に(自転車だけど)今住んでいる家に帰りは、早速その階段昇降機を父と母に紹介して、二人の反応を待った。友達の親父さんから聞いた話を伝えるのはもちろん、自分なりに階段昇降機を調べてみてわかりやすかったインターネットのページを二人に見せた。二人はしばらくインターネットの画面を繰り返しスクロールしながら階段昇降機について言葉を交わし、「この階段昇降機っていうの、お前が探してきたのか?」と尋ねた。
「そうだよ」
そんなこと関係あるの?という風な勢いで僕は答えた。少し離れたソファに座っていた妹が「お兄ちゃんどうしちゃったの?急に人が変わったみたい」と目を丸くして言った。母が「もともと優しい子なのよねぇ」としみじみ言ったのを妹はやっぱり聞き逃さず、「ま、私のほうが優しいけどね」と付け加えた。
階段昇降機にはみんなが賛成だった。
あとはおじいちゃんとおばあちゃん次第だ。
「階段昇降機のことは俺からおじいちゃんに伝えるか?」
父が僕を見て訊いた。迷いなく「僕から伝えるよ」と答えた。父はやさしく微笑んで、「色々ありがとうな」と僕にだけ聞こえるように言った。

次の日、味花の閉店時間頃にお店へ行き、片付けをしているおじいちゃんに声をかけた。あの病院以来、僕らは普通に会話をするようにはなっていたけど、面と向かって話すのはこれが初めてだった。
「提案があるんだよね」
お客様席の一番奥。そう、子供の頃、僕らが宿題をやっていたあのテーブルで、おじいちゃんと向かい合った。もしかしたら、この家を出て行った日に出された宿題を、今やっと僕は提出しているのかもしれない。
「新商品の件か?ラーメン以外は置かねぇぞ、うちの店は」
おじいちゃんが低い声で言った。でも、冷たい感じではなかったので安心した。
「ううん。おばあちゃんのことなんだけど」
僕はここまでの経緯を、ゆっくり、丁寧に、おじいちゃんに伝えた。おじいちゃんも、僕の顔を見て真剣に聞いてくれた。
おばあちゃんが足を不自由にしてから少し寂しそうなこと。おばあちゃんと会いたがっているお客様がたくさんいること。お店に立たせてやりたいけど、おばあちゃんにとっては階段の移動がとっても大変なこと。そこで、友達の親父さんが階段昇降機という福祉機器をオススメしてくれたこと。
おじいちゃんは話の後半になるにつれだんだんと顔を下に向け、話が終わる頃には、完全に顔を机の方に向けて、黙ってしまった。少し沈黙を作ったあと、僕は恐る恐る尋ねる。
「ど、どうかな?もちろん階段昇降機のお金は俺がバイトして払うから」
それを言い終わるか終わらないかぐらいのタイミングで、「ありがとな」とおじいちゃんが呟いた。下を向いたままだ。その呟きは昨日の父の呟きとひどく似ていて、やっぱり親子だなと思った。
「面目ねぇ。ばあさんが寂しそうにしていたのには薄々気付いてはいたんだが、俺には、何も出来なかった。調子のいい日には、ばあさんに肩を貸して階段を降ろしたりしてたけどな。俺ももう歳だ。しんどくて、その回数も減っちまった」
おじいちゃんが少し震えているのがわかった。
「何も出来なくてよ、どうしようか考えるのもいつの間にかやめてた。店もさ、もう畳んじまおうかって一瞬悩んだんだよ。あいつと一緒じゃなきゃやってる意味もねぇし。でも、そんな中、まさかお前がこんなことまで考えてくれてたなんてな。自分が恥ずかしくなっちまった」
何を言っていいか分からず、僕は謝ってしまった。
「ご、ごめん」
おじいちゃんが顔を上げた。目には涙が溜まっていた。初めて見た。
「馬鹿言うな。嬉しいんだよ。有難ぇんだよ」
右手でこぼれそうな涙を拭って、おじいちゃんは笑って言った。
「ありがとな」
その笑顔は、もうずっと昔、おじいちゃん子だった僕が「えーもうお仕事なの、行っちゃやだー」と駄々をこねていた時に、「明日もいっぱい遊ぼう」と言ってくれた時の、あの笑顔と一緒だった。
僕の頬を、冷たいものが伝った。自然に涙が出てきて、止まらなくなった。おじいちゃんも慌てているから、きっと同じなのだろう。少しの間、二人して無言で泣いていた。聞こえるのは鼻をすする音。やっと、おじいちゃんと打ち解けられた気がした。
改めて僕は思い出した。
やっぱりこの家が、おじいちゃんが大好きだったってこと。
そこで突然ガラガラとドアが開いた。泣いていた僕らはものすごくビックリしてバタバタしてしまった。「わりぃわりぃ、もう店は閉まってるんだ」とおじいちゃんがかろうじて言ったけど、そこに居たのは父と母と妹だった。
「わ。おじいちゃんとお兄ちゃんの目が真っ赤!」
妹が僕らのテンションとは真反対ぐらいの明るさで言った。いや、もちろん僕らも明るいは明るい気持ちではあったんだけど、まるで異質の響きだった。
「おじいちゃんとお兄ちゃんを泣かせるなんて、なんとかなんとか機って、すっごい魔法のアイテムだね」
確かに、と僕は思った。僕ら二人を同時に泣かせるなんて、階段昇降機は、大したアイテムだ。猫型ロボットにだってそうそう出来ることじゃない。おばあちゃんは何て言うかな。いつでもドア?どこでもイス?名前がたとえわからなくても、僕らにちゃんと魔法はかかった。

その日、みんなでご飯を食べながら、おばあちゃんにも階段昇降機の話をした。おばあちゃんも、とっても喜んでくれた。「階段昇降機のお金は私たちが出すから」とその席で父が言った。そこでなにか言おうとしたのを、隣に座っていた母が止めて、小声で言った。「私達にも、何かやらせて、ね」。僕は頷いた。大袈裟だけど、この家族に生まれて良かったなと思った。

次の日には、両親が昇降機メーカーに手配をし、階段昇降機の工期を計算してもらった。大規模な工事は一切必要がなく、見積もりも、階段に沿うように階段昇降機のレールが設置された完成予想図も、僕らが思い描いていたものとほとんど違和感がなく、その場で階段昇降機の契約をした。店舗での作業ということで、施工に関わった昇降機メーカーの人には物理的にも時間的にも大変迷惑をかけたけど、タイムスケジュールや使い方の相談にも乗ってくれて、一ヶ月半後、味花に素敵な魔法のアイテム、階段昇降機が誕生した。
「私も、ご家族のお話が聞けて、幸せをもらえました」
打ち合わせを重ねた昇降機メーカーの人は最後にそう言ってくれて、もうその時点で「階段昇降機を設置してもらってよかった」と思うことができた。でも、実際にその階段昇降機という魔法のアイテムがおばあちゃんを乗せて動き出した瞬間、互いに顔を見合わせながら笑顔になって、今まで感じた感情と比べられないぐらいの喜びを、心の底から「階段昇降機を設置してもらってよかった」という気持ちを、みんなで共有することが出来た。
「階段昇降機か。こりゃ随分と楽だねぇ」
おばあちゃんの間の抜けた声が階段の上から聞こえてきて、もう一度僕らは顔を見合わせて笑った。おばあちゃんが階段昇降機で降りてくると、その顔もホクホクの笑顔だった。交代しながら、階段昇降機の乗り降りを繰り返した。
階段昇降機の順番待ちをしている間、「今度はお兄ちゃんも一緒に泊まりに来ようね」と隣で妹が言った。それを聞いた昇降機メーカーの人が「お泊りグッズ、例えば布団なども階段昇降機で運ぶことができます」と言葉を加えた。そこで階段から父の「おお、乗り物酔いが激しい俺でも昇降機は大丈夫だな」という声が聞こえて、みんながそっちに注目をしたけど、僕は一人で想像を広げていた。
昔みたいに、同じ部屋で、みんなで横になって寝るのも悪くないな。少しだけ大人になった今なら、昔よりも色んな話が出来る。きっと、色んな話も聞ける。きっと、多分、今ならおじいちゃんも、いいよって言ってくれる気がする。
同じことを思っていたのだろうか、その瞬間おじいちゃんと目が合って、おじいちゃんは僕の目を見たまま、ゆっくりと頷いた。そして、一緒になって少し照れながら微笑んだ。

それから。
階段昇降機が家に出来てからというもの、おばあちゃんはお店に毎日のように立ち、そもそもそれが出来る前より元気なんじゃないかというぐらい、大きな、だけどやさしいあの声でお客様を迎えていた。常連さんもとても嬉しそうだ。おじいちゃんも、やはりおばあちゃんが店内に居たほうが元気な気がする。
父や母も不思議と以前よりこの家に来る回数が増えて、家族みんなで居る時間が多くなった気がする。階段昇降機は魔法のアイテム様々だ。
ちなみに、友達とその親父さんには階段昇降機の御礼の意味も込めて、味花の年間割引券を渡した。毎回500円引きで食べられる。友達が涙を流して喜んだから、今度は「大袈裟だよ」と言ってやった。
まだ誰にも言っていないけれど、お店を手伝っているうちに、もっと大人になっても、ここで働いていたいなと思うようになった。おじいちゃんの作るラーメンみたいに、美味しい料理でお客様を喜ばせたい。そんなことを言ったら、おじいちゃんは何て言うかな。きっと驚くだろうな。でも、喜んでくれたらいいな。

「ねぇ、知ってた?味花って名前、昔は違ったんだよ」
久し振りにこの家に泊まる夜。昇降機の業者の人に教えてもらった通り、布団を階段昇降機に運んでもらって、味花の二階に自分のゾーンを作って寝っ転がっていた。隣に来た風呂あがりの妹が、牛乳を飲みながら話しかけてくる。味花の名前が変わった?そんな話は聞いたことがなかった。
「知らなかったでしょ。私、この前泊まった時、おばあちゃんに聞いたの」
ずるいな、という気持ちが先に出てきたことに驚いた。
「前はどんな名前だったんだ?」
「違うの。重要なのは、前がどうだったかじゃないの」
妹が牛乳を片隅に置いて、その手を前に出し、人差し指を立てた。まるで静かにして、とお願いするポーズのような格好になった。
「1?」「違う。これ道端の花ね。」「見えねぇよ」「いいから。ここからが大事」
「花が咲くには、何が必要でしょう」
突然の問いかけに、僕は戸惑った。
何を突然言い出すんだよ、と妹に突っ込もうかと思った。
でも、すぐに答えがわかった。
僕の名前は、大地。妹の名前は、ひかり。
花が咲くには、大地と、そして太陽の光が必要だ。
「お兄ちゃんがさ、生まれた時にお店の名前を変えたんだって」
妹が笑った。そして、ものすごく誇らしげに言った。
「この場所ってさ、最初から私達のためにあったんだよ」

「あいよ、いらっしゃい」
店内に、おじいちゃんの威勢のいい声が響く。その声に連鎖するように、おばあちゃんが「いらっしゃいませ?」と優しい声を出す。「ここ、看板は少し古いけど美味いんだぜ」「へー、確かにいいにおいだ」と今入ってきたお客さん同士が話すのを、お店の一番奥の席で学校の宿題をしている僕らの耳は逃さない。中学校三年生の妹のひかりが「古い看板って、悪口?」と小声で聞いてきたから、僕は満面の笑みで胸を張ってこう答える。「味があるってことだよ」。このお店は、やっぱり、僕の最高の自慢だ。